シン・仮面ライダーのネタバレを含む感想です。
終始、絶賛しています。
シン・ジャパン・ヒーロー・ユニバースと呼ばれる「シン・~」シリーズの一つの楽しみ方を、個人的にまとめてみようと思います。
圧倒的オタク映画
非常に観る人を選ぶ作品だと思います。
いや、映画という時点で相当に観る人を選ぶものだと考えているのですが、その中でも特に人を選ぶと思います。
伊集院光さんがラジオでおっしゃったように、PG50(50歳未満には助言が必要)というのは言い得て妙です※1。
『仮面ライダー(1971)』直撃世代と一緒に観ると、面白さが増大するでしょう。
どこが人を選ぶかというと、とにかくオタク映画という点につきます。
それを「庵野節」と呼ぶ方もいらっしゃいますが、それを庵野監督っぽさだと定義すれば、そのとおりでしょう。
『シン・ゴジラ』よりも『シン・ウルトラマン』よりも、オタクに向けて作っている。
何オタクかと言えば、石ノ森章太郎作品オタク向けの作品です。
オタク向け作品とは何かというと、過去作品へのリスペクトとインスパイアとオマージュに満ち溢れているということです。
筆者は1回鑑賞しただけですが、以下のような元ネタが散見されました。
シン・仮面ライダー | 元作品 | 内容 |
三栄土木 | テレビ版仮面ライダー(1971) | 本郷猛と緑川ルリ子を追うダンプカーに書かれた文字。 アクションシーンの多くを撮影所近くの土木会社の敷地で撮影していたことに由来 |
流血 | 漫画版仮面ライダー (1971) | 力の制御が利かず暴力を嫌悪する描写は漫画版と同じ。 その後の精神力による抑制とオーグの耐久性を示す 対比にもなっている |
手術痕 | 漫画版仮面ライダー (1971) | 顔の手術痕を隠すためにライダーマスクを被る設定は 漫画版と同じ |
泡 | テレビ版仮面ライダー (1971) | テレビ版では倒された怪人が泡になって消滅したことに由来 |
自立式サイクロン号 | テレビ版仮面ライダー (1971) | 本郷猛と緑川ルリ子の後ろをサイクロン号がついて来る。 ライダーマシンは脳波コントロールできるという設定に由来 |
K | ロボット刑事 (1973) | 人工知能Iのための外世界観測用自律型人工知能。 容姿や服装がロボット刑事Kに酷似 |
J | 人造人間キカイダー (1972) | Kの前身で左右非対称の顔。 キカイダーも同様で、人間体の名前がジロー(J)。 また、ロボット刑事の前身の企画がジャッカル(J) |
I | キカイダー01 (1973) | J、Kを生み出した人工知能。 キカイダー01の人間体の名前がイチロー(I)。 また、全てを生み出した石ノ森章太郎のイニシャルでもある |
バットヴィールス | テレビ版仮面ライダー (1971) | ウイルス(virus)のこと。 当時の子ども達は細菌=ヴィールスで覚えたそう |
ハチオーグ | 仁義なき戦い(1973) | 互いに日本刀を持ち、一方が着物で応じる構図 |
緑川イチロー | キカイダー01 (1973) | キカイダー01の人間体の名前がイチロー。 |
チョウオーグ | イナズマン (1973) | イナズマンのモチーフは青い蝶。 また、イナズマンになる前がサナギマン |
仮面ライダー0号 | 仮面ライダーV3 (1973) | 変身ベルトがダブルタイフーン。 白スカーフ。自ら改造手術を受けることを希望 |
1号の左足骨折 | テレビ版仮面ライダー (1971) | 藤岡弘が撮影中に大腿骨骨折し、 第14話から2号ライダーに交代した逸話に由来 |
13人の仮面ライダー | 漫画版仮面ライダー (1971) | 11人のショッカーライダーと1号2号を足して13人。 漫画版では12人のショッカーライダーに本郷猛は敗北する |
緑川イチローの計画 | 新世紀エヴァンゲリオン (1995) | 精神エネルギー(プラーナ)だけの存在になり、 自己と他者の境を消失させる。 碇ゲンドウ版人類補完計画のセルフオマージュ |
立花と滝 | テレビ版仮面ライダー (1971) | 立花は政府の男、滝は情報機関の男。 立花藤兵衛(おやっさん)は本郷猛の正体を知る理解者。 滝和也はFBI捜査官でライダーと共にショッカーと戦う |
第2+1号ライダー | 漫画版仮面ライダー (1971) | プラーナとしてマスクに宿った本郷猛が一文字隼人と話す。 死んで脳髄になった本郷と一文字が会話するシーンに由来 |
シン・ゴジラが4:6、シン・ウルトラマンが3:7とすると、シン・仮面ライダーは体感1:9で元ネタがある印象です。
筆者が庵野監督作品にハマったのは、例に漏れず『新世紀エヴァンゲリオン』からなのですが、それがどこに刺さったかというと、最初は「第5使徒ラミエル」でした。
小1のとき、ウルトラ怪獣大図鑑で「四次元怪獣プルトン」の容姿に心を打たれた筆者は、無機物的な脅威として描かれたラミエルに同じように心を打たれ、そこから「作品のモチーフ」と「それに影響を受けた別作品のモチーフ」の関連を探るようになりました。
この鑑賞の仕方が、オタク的な態度です。
『シン・仮面ライダー』もまた、このような態度をとる人を非常に意識している作品と感じました。
なんというか、「スクリーンの向こう側にオタクがいる、何なら自分より詳しく、深読みしすぎるくらい深読みする人がいる」と想定して作られている、そう感じます。
そんな作品は平成になってから本当に減っているので、希少価値まで加味したら、「100点満点で5000兆点」くらいになります。
ちなみに、筆者は「庵野節」を「面白い画角や構図(いわゆる実相寺アングル)を気持ちの良いテンポで切り替えながらストーリーを進めたり意味を持たせたりすること」と考えているので、そういった意味での庵野節は、むしろ前3作より少ないと思います。
もっと庵野節を入れられそうなところをあえて入れないところに、『仮面ライダー(1971)』や他の石ノ森作品を現代に伝えたいという意思を感じました。
「アンチや揚げ足取りへの回答」という側面
『シン・エヴァ』の制作発表後にどこかで言及されていたことですが、『シン』の意味は、新であり、真であると同時にジンテーゼ(synthesis)の意味でもあると考えられます。
哲学的思考法の一つであり、「命題(テーゼ:thesis)」があり、それに対する「反対命題(アンチテーゼ:antithesis)」が生じ、その両方を統合し矛盾を解決したものを「ジンテーゼ」といいます。
シン・シリーズは、これに沿った作品群だと見ることができます。
『仮面ライダー(1971)』も、作品単体では矛盾もありますし、行き当たりばったりなところもあります。
その矛盾点や語られていない(けれど各種メディアから伝え聞いている)ことへの指摘がアンチテーゼであり、それ自体を面白おかしく描写したものの一つが『空想科学読本』です。
『シン・仮面ライダー』を含むシン・シリーズは、こういった指摘を受けないものを作るのではなく、「こう考えたらいいんじゃないか?」という一つのアイディアを、現代の制作陣の力で具現化したものと捉えられます。
オマージュの中で特に目を引くのが、石ノ森章太郎原作の漫画版『仮面ライダー(1971)』からの引用です。
『シン・ウルトラマン』であれば成田亨デザインのコスチュームにこだわったように、『シン・仮面ライダー』では石ノ森章太郎原作漫画の展開や設定に準じたり補足したりと、とにかく原作版へのリスペクトが感じられます。
エンディングの感動もさることながら、こんなにも「オタクで良かったあ」と思わせてくれる点は、『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』よりも強かったのではないかと感じました。
ただ、冒頭で「人を選ぶ作品」と書きましたが、それは「元ネタを知らないと楽しめない作品」という意味ではなく、「元ネタを探ろうと思う人ほど楽しめる作品」という意味です。
『新世紀エヴァンゲリオン』は、いま振り返れば『ウルトラマン(1966)』と『新幹線大爆破(1975)』の再構築なのですが、そんなことは全く知らずに視聴しても、充分すぎるほど楽しめました。
エヴァを観たほとんど全ての方が、そうだったのではないでしょうか。
同じく『シン・仮面ライダー』も、元ネタを知っているから面白いのではなく、知ろうとすればするほど面白くなるという意味で、オタク向け作品であると言えるでしょう。
本郷猛と緑川ルリ子の関係性
人物描写や登場人物の心理についても、元ネタとの対比から読み取れるところがありました。
一部映画レビューでは「緑川ルリ子(演:浜辺美波)はエヴァでいう綾波レイであり、惣流・アスカ・ラングレー」と言われていましたが、エヴァを引き合いに出すなら、緑川ルリ子は葛城ミサトであろうと思います。
確かに、ショートカットは綾波レイの、「コミュ障」呼びといった主人公への辛辣な対応はアスカに、それぞれ近いところもあります。
ただ、作戦立案担当であること、肉親への葛藤が戦場に身を置く理由であること、「ところがぎっちょん!」のようなレトロな言い回しをする役回りなどは、葛城ミサトのポジションです。
コミカライズ版『新世紀エヴァンゲリオン』でも書かれていたように、碇シンジと葛城ミサトの物語を、舞台を変えて再構築したものが、本郷猛と緑川ルリ子の物語と感じました。
『ブラックジャック』の間黒男とピノコ、『HELLSING』のアーカードとインテグラ、『SPEC』の当麻紗綾と瀬文焚流、『刀語』の鑢七花ととがめのように、男女の情でない二者関係というのは、どの作品であっても良いものです。
本郷猛と緑川イチローの相違点
本作の本郷猛と緑川ルリ子の関係を語る上で欠かせないのが、緑川ルリ子の兄・緑川イチロー(演:森山未來)です。
本郷猛と緑川ルリ子の間に「男女の情はない」とする根拠として、ルリ子が本郷猛に兄の姿を重ねて見ているとされる描写が散見される点が挙げられます。
本郷猛も緑川イチローもともにバイク乗りであり、ツーリングを趣味としているようです。
また、通り魔を説得しようとして殉死した父を持つ本郷猛と、少女を庇って命を落とした母を持つ緑川イチローの、境遇の一致もあります。
ルリ子が本郷猛の面前で話した「極度のコミュ障」との評も、兄に対する愛憎入り混じったものと考えれば、なぜほぼ初めて言葉を交わすのにそこまで手厳しい言い方をしたのかにも一定の説明がつきます。
同じく、本郷猛を「優しすぎる」と評する様子も複数回見られ、その度に観客は「シンジだ……」「いやシンジ……」「シンジくんみたい……」と思わされたものですが、これも改めて見ると、兄・イチローへの思いを投影したものとも考えられます。
優しいが故に母を喪った哀しみから世界を閉じた緑川イチローと、優しいが故に力の大きさに戸惑いながらもルリ子の傍に居続けた本郷猛。
ルリ子は本郷猛に兄の姿を投影し、本郷もそれに気づいているからこそ必要以上に踏み込まないような、そんな二人の繊細さが感じられます。
心の目で観ろ
11人の敵ライダーと1号・2号が衝突するシン・仮面ライダー版13人の仮面ライダーは、漫画版『仮面ライダー』のオマージュです。
このシーンはトンネルでの戦闘であり、「とにかく暗くて何が起きているのか分かりにくい」という感想が見受けられましたが、「マジか」と思いました。
あのシーン、筆者にははっきりくっきり見えましたから。
このシーンに限らず、本作では「心の目」で観ることを想定しているシーンが複数あります。
こう動いたからこうなっているだろう、こう見えたということはこうしたはずだ、と感じながら見れば、1つも見づらいシーンなどありませんでした。
特撮版『仮面ライダー』とは本来そういう作品だったということを、本作は思い出させてくれたのです。
ライダーキックだって、要はトランポリンで跳んでキックしているだけです。
しかし、心の目を通して見れば、15m跳び上がり、22tのキック力で繰り出される必殺技です。
ライダーベルトも、要は電池で回るプロペラですが、心の目を通して見れば、サイクロン号の風圧を受けて回転する変身装置になります。
おそらくこの部分が、幼少期に仮面ライダーを観て育った人には実感しやすく、そうでない人には入りづらいとされる所以でしょう。
確かに人を選ぶ作品だとは思いますが、昨今のCGなどで「そう見えるように」している作品と違い、「そう見ようと心がける」ことを予め想定しているところが、本作の差別化であり、面白みの一つでしょう。
まとめ
他にも、ロケ地やカメラアングル、ストーリー展開などを掘り進めていけば、更にオマージュや理解が深まること請け合いの本作。
点数をつけるにしても、庵野監督作品でしか摂れない栄養素があるので、どうしても上限突破してしまうのが唯一無二の作品の難点ですね。 今回はテーマも好みだったので、尚更です。
『シン・仮面ライダー』自体も続編が制作できるような作りになっていましたし、新たな「シン・~」にも期待が高まります。
個人的には、『シン・沖縄決戦』や『シン・帝都物語』が希望ですね。
オタク的な見方でなくとも、受け継がれる意志に胸が熱くなる展開が待っていますので、まだご覧になっていない方は、是非劇場でご覧ください。
※1 TBSラジオJUNK伊集院光深夜の馬鹿力 2023年3月21日放送回
コメント