ポリヴェーガル理論とは?
神経科学者のスティーブン・ポージャス博士が1995年に提唱した、自律神経に関する理論です。
「ポリヴェーガル」とは、poly=多重、vagal=迷走神経の意であり、これまで単一の働きだと考えられていた迷走神経(副交感神経)が、実は複数(多重)であったことを説明した理論です※1。
これまでの自律神経の考え方
ポリヴェーガル理論が提唱されるより前の自律神経の捉え方は、交感神経と副交感神経の二つの働きに分けて考えるというものでした。
交感神経優位のときは活動的で心も体も明るく前向きになり、逆に副交感神経神経優位のときは活動が抑制されて心も体も低調で沈みがちになるというのが、これまでの自律神経の考え方でした。
そのため、うつ病やストレス性疾患は副交感神経優位の状態から交感神経優位の状態にすることで元気を取り戻し、外出できたり仕事や学校に戻れたりするものだと考えられていました。
交感神経優位であるときには体内のホルモン系も変化し、アドレナリンが増えて動きが俊敏になり、ドーパミンも増えてやる気や多幸感が増すことから、交感神経優位にすることが従来のうつ治療のゴールとも考えられていました。
新しい自律神経の捉え方(=ポリヴェーガル理論)
副交感神経優位のときには低調で低活動的であると考えられていたのに対し、ポージャス博士は生物の進化と神経の発生の観点から、副交感神経には2種類の異なる神経枝があることを指摘しました。
これがポリヴェーガル理論の核概念です。
①迷走神経背側運動核
迷走神経の中枢は頸椎、つまりヒトの首のところにあります。
その中でも背側、すなわち首を輪切りにしたときに背骨側に神経枝を伸ばすのが迷走神経背側運動核です。
迷走神経背側運動核は生物が恐怖を感じたとき、生命維持を最優先にする機能があります。
例えばクマやトラといった大型獣に襲われたときに手足を損傷したときでも出血多量にならないよう末梢の血流を抑えたり、隙ができたときエネルギーを最大限にできるよう消化機能を活性化させて準備したりする働きを担っています。
このようなヒト以前のときの機能がヒトにも残っており、ヒトも恐怖を感じたときには手足が冷たくなる、頭に血が通わなくなって思考が真っ白になる、消化器が働きすぎて下痢になるなどの症状が起こるとされています。
これらの自律神経状態はシャットダウンと呼ばれ、恐怖を感じる状況をやり過ごすまで続きます。
②腹側迷走神経複合体(疑核)
①に対して、いわゆるリラックスした状態のときにも副交感神経は優位になります。
この状態のときは背側ではなく腹側、つまりお腹側の迷走神経枝が働いています。
腹側迷走神経複合体はヒトが野生にいて群れをなしていたときに他の個体とコミュニケーションをとるために使われていました。
例えば声を出して呼びかけたり感情を伝えたり、口角をつり上げて目を細め笑顔を作ったりするためには腹側迷走神経連合群が優位になっていました。
この2つの副交感神経に加え、動物的に活発に動く状態、いわゆる「闘うか、逃げるか」のときに優位になる交感神経を含む3つの状態を自動的に切り替えながら身体のバランスをとっていることが、ポリヴェーガル理論によって明らかになったのです。
腹側迷走神経優位になるためのキーワードは「安全・安心」です。
安全・安心を感じられればどんな状況や環境であってもリラックスもできますし、他者と友好的なコミュニケーションもとれます。
逆に安全・安心を感じられていなければ全身に緊張からくる症状が出てしまいますし、コミュニケーションも不充分になり、より安心感を得られない環境になるという悪循環に陥ってしまいます。
なぜメンタル不調から自律神経失調になるのか
ポリヴェーガル理論以前は、自律神経失調症は別名「ゴミ箱病名」と呼ばれていました。
これは「特定の病名をつけるには決定的な症状は認められないけれど、メンタル不調であることは間違いないのだからとりあえず間違いとは言われない自律神経失調症とつけておこう」という医療者の打算を端的に表した呼称でした。
何と診断したらいいか分からないのでゴミ箱に放り込むように自律神経失調症の診断名がついていたのです。
その中には本当に自律神経失調症のものから、精査していけばPTSDや発達障害、パーソナリティ障害と判明するものまで様々ありました。
ポリヴェーガル理論を臨床に導入することによって、「目の前の相談者になぜこのような症状が出ているのか」と「ある治療法はなぜメンタル不調を改善できるのか」という2つの問いを同時に説明できるようになります。
ここでは紙幅の関係から、「なぜこのような症状が出るのか」の部分から説明していきたいと思います。
うつ病
うつ病になると気分が落ち込むだけでなく、様々な身体症状が出現します。
例えば寝つきの悪さは交感神経優位になることでリラックスできず眠りに入れない状態であると理解できますし、動悸や体の強張り、微熱感も同様に交感神経優位ということで説明がつきます。
一方、下痢を起こしてしまうのは背側迷走神経優位の状態が引き起こしたものと解釈できます。
腹痛が起きたりそこから食欲不振になったりするのも、同じく背側迷走神経優位になるがために引き起こされたものと言えるでしょう。
パニック障害
パニック発作が起きるときに出現する動悸や過呼吸は、交感神経優位な状態のときに頻繁に観測される症状です。
これは交感神経のスイッチが入るのではなく、元々腹側迷走神経によってかけられていたリミッターが外れ、心拍や呼吸に歯止めが利かなくなったために起こる生理現象です。
他方、手足が冷たくなったり、血の気が引いたりするのは背側迷走神経優位の兆候であり、パニック障害とは自律神経の状態が急速交代、もしくは交感神経症状と副交感神経症状が同時に現れたものだと言えます。
社交不安性障害
社交不安性障害、もしくは対人恐怖も腹側迷走神経優位の状態になることができず、交感神経優位になったり背側迷走神経優位になったりすることで症状化していると理解できます。
対人場面で手汗が出たり、口が乾いたりするのは交感神経優位状態に入ったことを示す兆候ですし、頭が真っ白になって言葉が出てこなかったり、発声しづらくなったりするのは背側迷走神経優位の状態です。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)
PTSD症状の多くは背側迷走神経失調状態です。
過去の出来事がフラッシュバックするのは実は脳内で起きているのではなくまず体が過去の状態と同じ自律神経の状態になり、それが脳にフィードバックして過去の記憶をありありと再現しているのです。
トラウマ記憶が想起された後で涙が出てきてしまったり震えが止まらなくなったりするのも、過去に背側迷走神経優位になったことで行動が未処理になり、そのとき泣けなかったぶん涙が出たり、適切に怯えられなかったので時間が経ってから震えとして表出したりしているものと考えられます。
発達障害(特に自閉症やアスペルガー症候群)
発達障害全般の特徴として、神経発達の段階でつまずきがあり、自律神経失調を起こしやすいところがあります。
そういった前提もあり、定型発達の人と比べて自律神経失調症状を呈しやすい傾向があります。
アスペルガー症候群の人がかんしゃくを起こしやすいのは、安全・安心を感じづらく、交感神経優位になって怒ったり自傷行為に走ったりしやすいためと考えられます。
また、下痢や便秘、空気嚥下からくるげっぷや放屁が多いのも、背側迷走神経優位になるために消化器症状が出現しやすいためだと思われます。
愛着障害(およびアダルトチルドレン)
親や養育者などの愛着対象が情緒的に不安定だったり虐待やネグレクトを受けたりすると、社会交流の基盤となる腹側迷走神経優位の状態に極端に入りづらくなります。
そのため、感情面では怒りやすい、混乱をきたしやすいといった特徴が、身体面では緊張からくる肩こりや頭痛、便秘や下痢、動悸、発汗、声の出しづらさ(ヒステリー球)といった症状が出やすくなります。
五月病
4月に環境が変わった新入生や新入社員は、その多くが安全・安心のない状態からスタートします。
自律神経の状態で言えば、交感神経や背側迷走神経優位の状態です。
その後に友人ができたり環境に慣れたりしていけばいいのですが、安心感が獲得できないまま5月を迎えると、背側迷走神経優位の状態から切り替わらなくなってしまい、落ち込みや気だるさが強くなります。
そこに気圧や気温の変動や大型連休明けの倦怠感が重なると、五月病の症状になるものと考えられます。
五月病というのは怠惰や思い込みではなく、精神生理学的に説明のつく現象だということです。
HSP(highly sensitive person)
HSPは何らかの理由で腹側迷走神経優位になりにくい、もしくはその幅が極端に狭いと考えられます。
安全・安心を感じづらいがために緊張しやすく、その緊張から肩こり・頭痛・吐き気などが起きやすくなります。
特に耳の鼓膜張筋の緊張は聴覚を過敏にし、人の声や物音に反応しやすくさせます。
背側迷走神経優位のときには危険に備えて低音へのノイズキャンセリングを一旦止め、足音や空調音、低い声や隣室からの大声などに反応しやすくなって、結果的に緊張状態をより強めていく悪循環に陥ります。
裏を返せば、このような鼓膜張筋とそれに連動する神経系の緊張を緩めることで、HSPの症状を改善することができます。
腹側迷走神経優位にするためのセルフケア
ポリヴェーガル理論を利用した、リラックス状態を作り出す方法を3つご紹介します。
笑顔
笑顔を作ることで顔面にある迷走神経が活性化され、それが腹側迷走神経運動核(擬核)に伝わることで腹側迷走神経優位の状態になり、心拍がゆっくりになったり呼吸が穏やかになったりします。
「リラックスしたから笑顔になる」のではなく、「笑顔になったらリラックスできる」という神経系の仕組みを利用したリラックス法です。
笑顔の効用は体内だけではありません。
笑顔になることで周囲の人も安心し、周りの人の笑顔を見ることで自分自身も安心するため、より腹側迷走神経優位の状態が安定するのです。
一方で、険しい顔つきでいる人は周囲も安心できず険しい表情になり、結果として自分も不安定な自律神経の状態のまま物事に臨まなければならなくなる、といった悪循環にも陥りやすくなります。
歌う
歌うことによっても自然に腹側迷走神経運動核を活性化させることができ、それが鼓動の調整や規則正しい呼吸になることを促します。
合唱などのときに「喉が開いていない(閉じている)」「声が頭のてっぺんから出ていない」などと言われるのは、要するに腹側迷走神経優位の状態に入っていないという意味なのです。
長く息を吐く
顔の下半分の神経や喉のえらの辺りの神経を活発に動かすことで、コミュニケーションの状態である腹側迷走神経優位に能動的に移行できるようになります。
笑ったり歌ったりできないような状況下では、息を長く吐くことで同様の神経を活性化できるので、声を出せない場面では息を吐く動作から意識してみると良いでしょう。
※1 ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」, ステファン・W・ポージャス(著) 花岡ちぐさ(訳), 2018 https://amzn.to/3hjgCB6
コメント
[…] どちらが良い・悪いという話ではないのですが、ポリヴェーガル理論の視点から考えると、やはり『安全』に配慮された環境のもとで瞑想できるように細心の注意を払うことと、クライエントには『耐性領域』の中でおこなってもらうこと、このポイントを押さえたほうが効果的かなぁ・・・と感じています。 […]
おっしゃる通りだと思います。カウンセリングやセラピーの主目的が『耐性領域の拡張』と考えます。